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街てくミステリー(3)

11月14日の「街てく」研修~
青森の町づくりは、開港「寛永2年(1625)」と同時に進められました。
最初は、青森の中心部分となる浜町、大町、米町から始まり続いて、東側の堤川周辺と西側の善知鳥、安方周辺と大工町そして、南側の鍛冶町、寺町、新町、柳町が取り立てられました。

「貞享(じょうきょう)元年1684」の古地図(勿論写し)を片手にカメラを携えての「街てく」の第3弾は当時の町の中心部分に見られる施設①~⑯を覗いてみました。
 
〇青森の中心部分(絵図から)

             
                                                                                                         絵図拡大クリックして 
①は毘沙門堂への参道(今の柳町通りです)


②は毘沙門堂(後の香取神社で今はニッセイビル裏の駐車場付近)

 
③は善知鳥神社向かいの奉行所が寛政3年(1793)に移転、
  幕末までこの地にありました。(現在はワシントンホテル北隣の駐車場付近です


④は町年寄「佐藤理右衛門」の屋敷(現在ワシントンホテル裏手


⑤も町年寄「村井新助」の屋敷(現在のパークハイツ本町付近)

 
⑥は近郷の浦町(神明宮)方向に行く「浦町通り」
    (現在のコスモポリタンから国道にでる一方通行の道)


⑦には「獄」と書かれています。おそらく監獄があった場所
    (現在のホテルクラウンパレスの
西隣り)

 
⑧は沼で、河口まで川が流れています。この川を利用し御蔵から港まで米が運ばれ  ました。(現在この場所はホテル青森が建ってる場所です)

 
⑨は沼で、後にこれらの川・沼は干しあがったそうです
      (現在この場所に莨町小学校があります)


⑩の沖口(湊口)番所はこの付近
⑪も沖口(湊口)番所で海からの侵入者を監視しました。

 
⑭の莨町の木戸口付近, ⑫堤町⑬博労町⑭莨町⑮大町にも木戸口がありました。      (木戸口には木戸番がいたそうです)

 
⑯には黒石藩(弘前藩の支藩)御蔵がありました。黒石から大豆坂街道を利用し
  此処まで米を運んだようです。
  
 
 
 
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プロフィール

ヨシ爺とふう婆

Author:ヨシ爺とふう婆
Yahoo!から引っ越してきました。老後を「趣味」で楽しく暮らそうと始めたブログです。
食べ歩き大好きな自分が青森で訪問したお店や食したメニューを紹介しています。また、ボランテアで観光ガイドをしています。日々、変化していく地元の状況を観光客に伝えようと、今も老頭をフルに使って習得に努めています。

追記:感想はあくまでも素人の自分の嗜好で述べてます。味覚は個人の趣向によって違いますので、批判を帯びたコメントや不適切なコメントは御控え下さるようにお願いします。

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